今日、横浜西口のハンズで胸のところに「人間国宝」と書かれたTシャツを見つけた。
その「人間国宝」のあまりにも申し訳なさげな字体に、思わず財布の紐が緩みそうになったが、なんとか我慢した。 あぶないあぶない。 もしあそこで理性の手綱を手放して、あの素敵なワンポイントTシャツを買っていたら、 きっと今こんな風にブログの更新なんてできてない。 あまりの切なさに、目から塩からい水が垂れ流されていたかもしれない。 数週間は自己嫌悪に苛まれ続けたことだろう。 というかまあ、そんな話はどうでもよくて。 僕が今まで生きてきた中で一番切なさを感じた瞬間は、 山崎まさよしさんの「one more time,one more chance」を初めて聴いたときでした。 なんというか、すごく切ない曲ですよね。 あまりの切なさに、目から塩からい水を垂れ流しそうになりました。 つまり、結局、切なさの度合いに関係なく、結果に違いなんてないってことなんです。 これは案外重要なことなんじゃないかと思います。なんとなくですが。 ちなみにone more time,one more chanceは、映画「秒速5cm」の主題歌になってました。 yahoo動画で高画質のPvが見れます。アニメですが。 新海誠さんはやっぱすごいなぁ。アニメなのに実写にしか見えない背景とか、すごくいいなぁ。 #
by syunsukea
| 2007-06-26 01:50
人類全員が同じLvで話し合うことができれば、これほど平和な世界はないんじゃないか。
だとすれば集団よりも個を重視するような現代の風潮はいかがなものだろう。 本当に、平和を願い、差別を憎み、人類の未来を憂いているのならば、そこには矛盾が生じる。 結局のところ真実は、一部の頭でっかちな方々の望むように踊らされている僕達、ってわけだ。 踊る阿呆に見る阿呆おなじアホなら踊らにゃソンソン、 なんていう粋な言い回しもあるけれど、阿呆の踊りなんぞ見てなにが楽しいものか。 んなことしてたら、阿呆がうつっちまう。えんがちょえんがちょ。 俺は踊る阿呆にも見る阿呆にもならんぜ。 俺がなりたいのはただの阿呆な人間だ。 踊っていなくても、それを見ていなくても、素のままで阿呆な人間だ。 なぜって? ・・・なんでだろう? 自分にとって一番大切な人が自分を一番大切な人とみなしてくれない、 なんていう悲しい話を悲しい話として認めたくないから、かな。 #
by syunsukea
| 2007-06-24 01:54
幸せというものは、きっとゼロサムゲームだと思う。
この世界のあらゆるものは相対的である。 そして仮に形のないものであっても、それが程度を表す概念であれば、やはり相対的だ。 例えば自分が富豪か貧乏かを決めるのに絶対的な基準はない。 貯金が10000円しかなかったとしても、発展途上国に行けば充分富豪を名乗れるだろう。 幸せが程度を表す概念である以上、幸せはゼロサムゲームだ。 誰かが幸せになった分だけ、誰かが不幸になる。 愛し合う2人が幸せになれば、どこかで誰かが2人分不幸になっている。 逆に言えば、誰かが不幸になればその分誰かが幸せになっているわけであるから、 そういう意味で言うと僕は人類全体に幸せを提供している、いわば聖人のような存在である。 そのような気高き聖人を目の前にすれば、どれほど高慢な人間でも思わず頭を下げてしまうだろう。 もはや地上に舞い降りたエンジェルと呼んでしまっても過言ではなく、今すぐ人間国宝に登録されてしかるべきである。 なのに、誰一人として僕を敬ってくれないどころか、構ってすらくれない。 お前らそんな態度でいたら、もう、ほんと、いつかえらいことになるぜ。 俺が本気で幸せを目指したりしたら、一体どれだけの人間が不幸になることか。 #
by syunsukea
| 2007-06-23 01:03
すすんだきょりは、はやさにじかんをかけたものです。
はやさは、すすんだきょりをじかんでわったものです。 じかんは、すすんだきょりをはやさでわったものです。 なんていうふうに、小学校の頃の算数で習った。 そしてテストにはこんな問題が出る。 A君はあるいてB君の家にいきました。 A君は1時に家を出てB君の家に3時につきました。 A君の家からB君の家までは3km離れています。 A君はどれくらいのはやさでB君の家に向かったでしょう? はっきり言ってしまおう。分かりにくすぎる。っていうか覚えにくすぎる。 なぜにわざわざそんなややこしい教え方をするのか。 「えっと、はやさ・・・きょりかける・・・じかん・・・いやきょりわる・・・はやさ・・・じかん・・・あれ?」 と困惑することうけあいである。 当時は、僕も全く覚えられなかった。 x=v×t (x:距離 v:速度 t:時間) これだけでいいじゃない。 vを求めたかったら、両辺をtで割ればいいじゃない。 tを求めたかったら、両辺をvで割ればいいじゃない。 何故に小学校の頃の教師は1つの数式で表せるものを、わざわざ3つのわかりにくい日本語に分解してしまったのか。 この系統でさらに言わせてもらうと、高校の物理。あれも教え方がおかしい。 dx/dt=v、dv/dt=aというとてつもなく便利な定義を何故に教えてくれないのか。 それが使えないおかげで 「自由落下の場合はx方向だけを考えればよい。重力加速度をgとすると 自由落下の位置を表す公式はx=(g*t^2)/2+v0*t+x0。 自由落下の速度を表す公式はv=g*t+v0」 なんてわざわざ覚える必要の無い公式まで覚えなければならなくなる。 そりゃあ子供だって理科離れするさ。そんなことやってたら。 昔にきいたところによると、高校の物理では微分(例えばdx/dt=v、dv/dt=aとか)を使って教えてはいけないんだそうだ。 物理を考えるのに微分積分が使えないだなんて、そんな馬鹿な話があるか。 物理の考え方の基礎と言ってしまっても過言ではない微分が使えないとか、まじで頭悪すぎる。 いや、頭悪いなんて言葉じゃ全然足りない。頭がおかしいとしか思えない。 ベクトルと微分積分と三角関数、指数関数あたりは、物理の最初の授業で教えとくべきだって。 数学とか関係ない。そこら辺が使えないんじゃ全くお話にならない。 いっそのこと、高校Lvの数学を全部履修するまで物理は教科に入れなくてもいいぐらいだ。 まったく。誰の所為だ。文部科学省か。まじで頭おかしい。理科離れを推奨しているとしか思えない。 ゆとり教育とかやってる場合じゃねーよ。 #
by syunsukea
| 2007-06-20 22:42
もしかしたらありえたかもしれない輝かしい現在を夢見ることに意味が無いのであれば、
もしかしたらありえるかもしれない輝かしい未来を夢見ることにも意味は無い。 「過去にすることができなかった努力を、現在ならできるはずである」と考える根拠は一体どこにあるのか。 人間は人間の認知できるスケール内でのみ、あらゆる可能性を持っている。 同様に、自己は自己の認知できるスケール内でのみ、あらゆる可能性を持っている。 しかしこれを逆に言えば、自己は自己を超えることはできないということでもある。 「他人が持つ自己」が「自分の持つ自己」よりも高いポテンシャルを持っていたからといって、 「俺も彼も同じ人間なんだから、俺にだって彼と同じことができるだけの可能性があるんだ」 などというのは、はなはだしく勘違いであると言わざるを得ない。 「自分は自分、他人は他人。」 全てはこの一言に尽きる。 #
by syunsukea
| 2007-06-20 00:53
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